14
6限の数学Iは、土方が今まで受けたどんな授業よりも悲惨なものだった。
終始クラスメイトたちのにやにやした視線だとか、先ほどの事の顛末を知らない者に誰かが耳打ちして教えている声だとかが
土方を刺すように取り巻いた。
もちろん苛立ちはしたが、それよりも桂の空の席のほうがよほど目に付き、銀八の最後に見せた笑みも執拗に脳裏に浮かんでは消えた。
6限の終業チャイムが鳴ったと同時に、土方は教室を出た。沖田の呼び止める声が聞こえた気がしたが気に留めなかった。
「くそ…」
古い食堂のあるこじんまりとした中庭のベンチで、土方は独りごちた。流石にまだ生徒の姿はない。
食堂の裏からフェンス越しに見えるプールは未だ暑い時期だというのにどす黒く濁っている。
盛夏でもプール授業が行われないのは、昨年の卒業生がプールを破壊し、その修復が滞っているからだと前に銀八から聞いた。
その頃は、放課後に沖田や近藤と共に銀八とまるで悪友のように一緒に遊んでいた。
こんな事態になるだなんて、思いもせずに。
土方は少し悔やんでいた。
もしもあの暑い体育の授業で、倒れた桂を助けなければ。或いは去年の卒業生がプールを破壊しなければ。
俺は銀八と、まだ悪友でいられたかもしれないのに。
ふと何気なく顔を上げると、食堂裏のゴミ捨て場に佇む黒い髪を認めた。
桂だ。金網に手をかけ、どこを見るともなくぼうっと立っている。此所が屋上でなくてよかった、という表情だ。
「…桂」
土方は桂の名を呼んだ。先ほど自分が考えなしに点けた痕は長い髪に隠れ、見えない。
桂は振り返った。今度は逃げなかった。
「…悪かったな。あんな騒ぎになっちまって」
土方は一瞬躊躇ったが桂に近付き、そう陳謝した。
桂は今はまた無造作に積まれたゴミ袋に視線を移している。そしてぽそりと呟いた。
「土方」
「…ん?」
「…もう関わるな」
それは忠告のようにも取れた。
桂の無表情は覚悟を浮かべていた。
その覚悟はしかし強いられた覚悟であるように見え、金網を握る彼の細い手は心なしか震えている。
「…助けるって言ったのは嘘じゃねぇ」
「わかってる。ありがとう」
鐘が響いた。ホームルームが終わる鐘だ。いやに凛と響く。
Z組のことだから、チャイムが鳴る数分前にはとうに解散しているだろう。誰かが此所にたどり着いてもおかしくはない。
こんな場所で二人でいるのを見られたら、きっともう釈明の余地などなくなる。
しかし土方は、目の前にいる男が救われるのならホモだ何だという汚名を着てもいいとさえ思った。
本当に可哀想だ。心からそう思った。
桂さえ俺に縋ってくれるならば、護ってやる。その地獄から救ってやる。
ありがとう。そんな言葉が聞きたかったんじゃない。
土方は奥歯を噛んだ。桂に触れることも出来ない。
二人の間には数歩分の距離しかないが、明らかに踏み越えられない一線が其処には確固として存在していた。
俺には何もできないのか。目の前で苦しんでいる奴を、助けることもできないのか。
ざく、と背後で土を踏む音がした。
反射的に振り返ると、煙草を銜えた白衣姿に真っ白な頭の男。
土方は桂を庇うようにして銀八に向き直った。背後で桂の纏う空気が凍り始めるのを、温い風の中で感じた。
「桂」
銀八が呼ぶ。怒っている風でも、縋っている風でも、生徒を呼ぶ風でもない。
何を考えているのか、どういう感情を抱いているのか、全く解せない。
どうすればそんな風に振る舞えるのか、土方には不思議だった。
或いは其れが、「大人」というものなのか?
一番に子供に近いと思っていた教師は、本当は他のどんな教師よりも「大人」だったのか。
大人だから、俺たちみたいな若造と合わせて馬鹿をやれたのか。
「桂」
もう一度銀八が呼ぶ。赤い眼は土方でなく、真っ直ぐに背後にいる桂を捉えている。
長くなった煙草の灰が地面に落ちた。行くな。土方は自分の背中にそう書いた。
行くな、桂、行くな。
「せんせい」
土方は愕然とした。その声は何だ。
あの桂が、自身の尊厳も何もかもを捨て去ったような、銀八という雄の前に完全に鎧を脱いで平伏したような、
そんな声でせんせいと呼ぶ。
愛しい人間を呼ぶかのような、主人を恋う犬のような。せんせい。耳元でダイレクトに聞こえた単語。土方は敗北を感じた。
「せんせい…」
桂は操られたかのように、土方を押し退けふらりと前進した。
覚束ない足取りで、銀八の傍まで歩み寄り、気が触れたようにその足下にへたりこんだ。
銀八は桂の肩を抱き起こして、そのまま連れたって歩き出した。
銀八も桂も、一度も土方の顔を見なかった。
二人の姿が見えなくなって、土方は急に立つことすら億劫に感じた。
背中を金網に叩きつけ、ずるずると座り込んだ。
どうしてだか自分だけ、何もかもを失ったような気がしてならなかった。
退部覚悟で煙草に火を点ける。とんでもなく苦く、不味かった。
その日を境に、ぱったりと桂は学校に来なくなった。
土方くんほんまごめんほんまごめんほんまごm
→